私の祖父から、よく聞かされた話です。
祖父が生まれた隣村の村長の二男のお話。
その二男は、18才のとき、
村長である親御さんから、分前をもらって町へ出ることになったという。
これから世に出るもとでとしての分け前は、
明治10年頃の60円だったそうな。
当時としては、相当な金額であったらしい。
60円の金を懐ろに、一騎当千の理想を掲げ、
未来の百万長者を夢見ながら、町への道中を急いだ。
向こうから、檀那寺の和尚さんがやって来る。
元気のない蒼い顔。
「どうしました?和尚さん。」
「やぁやぁ、実は、ご承知の通り、寺を普請しましてな。
あの通り立派な御堂が出来ました。
そこで、仏具を入れたいと思いましてな、今日町へ出かけたんです。
京都から仏具やさんが来てなさるんで、注文しに行ったんですよ。
ところが、それが、前金でないと困ると言われましてな、
注文を受けてもらえないんで、ホトホト困り果てて、
どうしたものかと思案しながら帰ってきたところですわ。」
「仏造って、魂入れずとは正にこのことですわ。」
「いくらですか?」
「60円。」
「今、その金があれば、仏具が入れられるんですね。」
「そうです、60円。」
「しかし、60円と言えば、なかなかの大金。
そうは簡単に、集まりません ・・・・ ハハハ、いやいやゴメン。」
立ち去ろうとする和尚に、60円差し出した。
「お使い下さい!」
向こうっ気強く、負けず嫌い、言い出したら聴かない性分で、
竹を割ったように、あっさりした気性の青年であったという。
和尚さん、驚いた。
「こんなことは相ならん。
君の出世のもとでを、私がもらっては・・・。」
「私は、どうにでもなります。
落としたと思ったら、何でもない。
安心してお使いください。」
かくて寺院は開かれたという。
村民の驚きと悦びのうちに・・・。
明治10年の60円の種まきは鮮やかに実った。
もとでの全部を、仏具に捧げた青年の運命は、鮮やかに開かれた。
11年間の薬屋の丁稚奉公を終え、惜しまれながら、主家を退いた。
のれん金を分けてもらって、独立した。
製糸を始めた。
僅かな資本の工場は、当初、血のでる苦しみ。
3年の後、工場は3倍に拡張された。
3年1000日、人一倍骨を折り、心を砕いた後には、
?天馬空を駆ける? の繁盛が続いたという。
独立して50年間、栄えに栄えたという。
巨万の富と、大勢の親族と、多くの友人に囲まれて、この世を去った。
一代80年、自分が死ぬまで、一度の葬式を出したこともない幸福者であったという。
・ | 1956年7月28日生(A型) |
・ | 趣味:犬の飼育(ダルメシアン2頭飼育中) |
・ | 小学2年迄、大阪 |
・ | 小3から小4迄、愛知県岡崎 |
・ | 小5から現在迄、川崎 |
・ | 中学2の1970年、父/光隆が、同地にて、タラオ電機(現コムデック)創業 |
・ | 1980年から1999年 和泉電気(現IDEC)勤務 |
・ | 2001年 代表取締役就任 |